2012年12月30日

ナゼ、登るのか?

エベレストに挑みエベレストで死んだジョージ・マロリーは「なぜ山に登るのか」の問いに「そこに山があるから(Because,it is there)」と答えた。

最近、山登りするんだ!というと、疲れるのに何で山に登るんだろう?みたいな空気を感じる。

そこで考えてみた。。。

「山に行けば、いい女でも手に入ると思ったか」
「山に行けば、生き甲斐でも見つかると思ったか」
見つかりはしない。
山にはどういうものも落ちていない。
あるとするなら、それは、自分の内部にある。
無理に言うなら、山に登るというのは、あれは、自分の内部に眠っている鉱脈を捜しにゆく行為なのかもしれない。あれは、自分の内部への旅なのだ。
あれ?
今、おれは、あれと言ったか。
あれじゃない。
これだ。
何故なら今、おれは登っている最中だからだ。
理屈を考えるな。
山には何にも落ちていないー
そんなことはよくわかっている。
じゃ、何故山に登るんだ。どうして、こんな辛い目に自ら遭うようなことをするんだ。
一歩、足を踏み出すのに、三度は喘いで大きな呼吸を繰り返さなければならないこんな行為を、何故するんだ。
おれがいるからだ、と羽生は言った。
おれがいるから山に登るんだと。
答えのようであって、答えでない。
答えでないようであって、答えのようでもある。
羽生よ、何故登る。
おまえはわかっているのかもしれないが、おれは答えられない。
おれには答えがない。
答えがないから登るのか。
登れば頂上にその答えが落ちているのか。
宝石のように光っているその答えが、山の頂のどこかの密室に、あるいは雪に埋もれた箱の中に、宝物のようにその答えが、ひっそりと入っているのか。
あるわけはない。
何の宝石も答えもない。
行為か。
ならば、その頂を目指すという行為が答えか。
今、おれがやっている、この、足を踏み出し、がちんがちんの氷壁にアイゼンの爪を蹴り込んで、一歩ずつ自分の体重を上にあげてゆくこの行為に意味があるのか。この行為そのものの中に答えがあるのか。
馬鹿だな。
つまらないことを考えている。
本当につまらないことを考えている。
どうでもいいようなことだ。
頂を踏むということに、価値があるのだ。
その過程で、何を考えたかなんて何の意味もないじゃないか。何を考えたっていい。考えなくたっていい。女の股のことを考えていたって、天上の神の国のことを考えていたって、要は頂上を踏んだか踏まなかったか。それだけじゃないか。
踏めば、英雄だ。
踏まねば、ただのゴミだ。
ゴミ以下の存在だ。
もし死ねば、何もいいことはない。
待てよ。
そもそもだ。
山じゃなくたっていい。
じゃ、人は、何のために生きているのだ。
何のために、毎日働いて、金を稼ぎ、生きている?
何故山へ登るのか、という問いは、考えてみたら、何故生きているのかと問う行為と同じじゃないか。
何故、人は生きている?
何を目的に生きている?
いいや。
いいや。
違うぞ、深町。
人は、じゃない。
他人のことじゃないんだ。
おまえのことだ。
人が、ではなく、おまえが何故、山に登るのかということだ。
何故、おまえは生きるのかということだ。
ああー
馬鹿だな。
本当に馬鹿だ。
山の頂上にその答えなんか落ちていないと言ったのは誰だ。
誰でもいいが、その通りじゃないか。どういういいものも、山の頂上には何も落ちてはいない。
そうならば、生きていることだっておなじだ。
どこかに、何のために生きているのかという答えが落ちているわけじゃない。
そうさ。
何のために山に登るのかなど、答えられなくたっていいんだ。
それに、答えろというんなら、そいつは、自分自身が、何のために生きているのかと、まず答えなけりゃいけない。
それができないのなら、他人に、そういう難しいことを問うもんじゃない。

      〜 夢枕 獏 「神々の山嶺」より 引用 〜


ってことで、おそらくマロリーは面倒くさいので、そう答えたのではないだろうか?

それくらい面倒な質問なんだと思う・・・のでこの質問厳禁ですねw


それでは、よいお年を!


● Posted by saeki | 2012年12月30日 18:36 | 山ハッスル
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